コロンブスの新大陸発見

  コロンブスの新大陸発見 イタリアのジェノバで生まれた船乗りのコロンブス。当時ポルトガルが東回り航路でインドに到達するべく次々と船を出したのに対し、彼は、西回りでインドに到達する事を計画。スペインのイサベラ女王の援助を得て出発した。 1492年、現在のバハマ諸島の一角に到達し、「西欧人による新大陸発見」を成し遂げた。4次に渡る航海でカリブ海一帯を探検、中米および南米大陸をのぞむところまで到達した。彼は自分が到達した場所はインドであると最後まで信じ続けており、先住民をインディオ(英語でインディアン)と呼びならすのは、このためであるが、今日ではネィティブアメリカン(アメリカの先住民)と呼ぶべきだという主張が強い。 コロンブスはジェノバ生まれであるが、イタリア人である確証はなく、スペイン系ユダヤ人との説が有力である。14歳で船乗りになり、地中海(ギリシャ)、イタリア、イギリス、アイルランド、北海沿岸などに出掛けた。1476年乗っていた船が火事になり、ポルトガル沿岸に逃れ、首都リスボンに至った。当地でエンリケ航海親王に仕えた船長・提督の娘と結婚し、義父が遺した航海資料を入手した。 リスボンは当時、商業の中心でもあり、冒険航海学者や地理、天文学者のメッカでもあった。コロンブスは、また、フィレンツェ出身の天文、地理学者トスカネリに励まされ、その地球球体説に従って西回り航路によるインド・ジパング(日本)への航海を計画した。ジパングは、イタリアの旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」の中に「黄金の国」として描かれている。 コロンブスはポルトガル王に計画を提案したが、東回り航路発見を間近を信じる国王に拒否された為、隣国スペインに赴いて王室に援助を求めた。 7年後の1492年、イサベラ女王はついに彼の願いを了承した。同年8月三隻の船に120人の乗組員でパロス港を出発。10月にはカリブ海のバハマ諸島に到達し、ここをサン・サルバドル(聖なる救済者)と名付けた。翌年2月帰国の途につき、いったんポルトガルに上陸して国王に謁見したのち、王の陸路の勧めを断って、海路パロス港に帰着した。 最初の航海の成功はスペインで大歓迎を受けたが、彼の偏屈な性格から直後に紛議に巻き込まれ、第2次から第4次(1493~1504)まで、航海を重ねる度にトラブルが続いた。 実際のインドへ到達したのは東回りのポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(1498年)であったから、インドの富はポルトガルが入手した。コロンブスは植民地総督の地位も解任され、不遇の内にバリャドリッドで54歳の生涯を終える。遺体は一旦セビリアで葬られた後、植民地を含む各地を転々として1902年セビリアの大聖堂に葬られた。彼が没して半世紀足らずの間に、メキシコ、ペルーで銀鉱山が発見され、スペインは一躍ヨーロッパ最強の国となった。
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