追われる先住民族の悲劇~ブラジル建国
ムーア人追放の長い戦いで情け容赦なくなっていたスペイン人は、インディオを苛烈に扱った。しかし、広大な地域を植民地化するにあたっては、一貫した方法をやり通す。スペイン人に続いて新世界にやってきたイギリス人達は、その両方の特徴に気付いている。エリザベス朝時代の批評家ジョン・フッカーは、スペイン人の残虐さを次の様に残していた。

『人間とは思えぬ冷酷さで、彼らは裸の従順な人々を征服した。宗教のためでも国家建設のためでもなく、金儲けのために人々を狩りだし、この上なく残虐に虐げ、とても人間とは思えぬ所業で火炙りにして焼き殺す』

それと同時にイギリス人達は、

『スペイン人の勤勉と骨折り、あれだけ多くの船を用意出来た多額の費用……全てを征服するための絶え間ない補給、あれほど高度で困難な物事を実行する活発で不屈の精神、そしてもう一つ、殖民への固い決意』

を称賛している。



スペインがアメリカに定着すると、ポルトガルが後を追うのは当然の成り行きだった。スペインに攻撃されてはひとたまりもないポルトガルは、海外における隣大国との関係を慎重に法律上にとどめておくよう努める。早くも1479年にはスペインとポルトガルは、ヨーロッパ以外の地域における各々の貿易圏を規制するための条約に調印している。

相談を受けた教皇庁は、アゾレス諸島の西約550㎞に仮想の経線を引き、それより西をスペイン、東をポルトガルに割り当てた。この裁定は1494年のトリデシャリス条約により二国間で永続化される事になる。この時、カボベルデの西約2000㎞に線が引き直された。これによってポルトガルは、南アメリカに現ブラジルの大部分を含む広大な地域を得る。

ポルトガル人は遅くとも1500年にはアメリカ大陸の存在を知っていた。インド洋に向かっていたポルトガル艦隊が逆風を避けて大西洋に乗り入れた時、驚いた事に条約の線より東側であきらかにアフリカでない陸地に行き当たったからである。しかし、ポルトガルはアフリカ沿岸とアジアや東インドへの航路開拓にかかりきりで、すでに各地に基地を建設しており、アメリカ大陸に投資する余裕はなかった。

ブラジル最初の植民地が築かれるのは1532年のことで、大西洋の島々の殖民地に倣って国王が『司令官』を任命し、彼らがドナトリオと呼ばれる土地払い下げ、証書に投資する。この第一波は、大部分が失敗に終わった。収益が上がって入植者が腰を落ちつけるのは、ポルトガルが奴隷制に基づくサトウキビのプランテーションを、カボヴァルデやビアフラ諸島からブラジルのペルナンブコ地方へ移してからの事である。



ブラジルの本格的な大規模開発は、やっと1549年に始まる。 この年、国王は大きな投資を行い、1000人以上の入植者を送り込んで、マルテイン・アフォンソ・デ・ソウザを幅広い権限を持つ総督に任命した。以後、急速で後戻りする事のない発展が続き、大規模な精糖産業が大西洋を横断して成長する。

ブラジルは、16世紀最後の4半世紀に世界最大の奴隷輸入センターとなり、以後もその地位を保った。 そして300年以上に渡って、どこよりも多くのアフリカ人奴隷を吸収。いわばアフリカ系アメリカ人の国となった。16世紀を通じてポルトガルは大西洋の奴隷貿易を実質的に独占していた。1600年までに30万人近いアフリカ人奴隷が海路植民地へ運ばれている。マディラへ2万5千人、ヨーロッパへ5万人、サントメへ7万5千人、そして残りがアメリカである。

この頃になると奴隷5人の内、実に4人は“新世界・アメリカ”へ向かっていた。ポルトガルが組織し、スペインがサトウキビ農場だけでなく、鉱山で使うために支援したプランテーション奴隷の制度は、他のヨーロッパ諸国が新世界に足掛りをつくるより遥か前に、確立して着々と拡大していた。

しかし、スペインがアメリカの銀の採掘で、またスペインとポルトガルがサトウ貿易で得ていた莫大な富はヨーロッパ中の冒険者をひきつける。スペインとポルトガルは、互いの利権範囲を慎重に尊重し、どのみち両国の王室は1580年にハプスブルク家の元に一つとなり、利権範囲も合併されるのだが、他の国はそのような抑制にとらわれなかった。



大西洋での役得をスペインとポルトガルに分割した教皇裁定が永続する可能性は、1520年代と1530年代の宗教改革の時期に北西ヨーロッパの沿岸国がローマへの忠誠を全て放棄したことによって破られる。プロテスタントはフランスの大西洋沿岸や北海沿岸低地隊の貿易界や港町、又ヨーロッパ最大の商業都市だったロンドン、そしてイギリス南西部の船乗りの間で特によく受け入れられた。

1561年 エリザベス一世の国務大臣だったサー・ウェイリアム・セシルは大西洋に関する国際法を調べ上げ、教皇には裁定を下す権限がないことを、スペイン大使に断固通告する。カトリックの主張を原則として無視していたフランスやユグノーの航海者の間には、古くから根強い伝承があって、大西洋の中ほどを縦に割る架空の線を越えたところでは、戦争と平和に関する通常の規制が保留になるとされていた。この線は教皇の最初の裁定より更に漠然としていて、誰もその正確な位置を知らなかった。

しかし『線の向こうに和平なし』という理論と更に実践が16世紀の世界の現実だった。だから新世界はほぼその端緒から『法の支配』が適用されない、『血と暴力』が予想される地域だと広く考えられていた。
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