1789年に西部開拓法にて定められた区画整理法で6マイル四方ごとに区画整理をして行き、1マイル四方(640エーカー)を$640で払い下げるという大雑把なもので、人口密度は大体平均で1マイル四方に3~4人。この料金は後100年間据え置き。一定の区画内に6千人集まったら準州、6万人集まったら州として認められた。そもそもフロンティア精神、西へ行く(Go West)という言葉はアメリカでは単に西に向かうだけはなく、夢や希望を持つ事を意味する。
今に残るモルモン・トレイルを、迫害されながらも希望を新天地につなぎ、教団は西へむかった。
ロッキー山脈越えは厳しく、ジョーゼフ・スミス亡き後、途中で大半が挫折、離団したが、1847年に数百名のモルモン教徒が現在のユタ州、ソルトレークシティに到着する。
当時の教祖ブリガム・ヤングが小高い丘の上からソルトレークシティのあたりの台地を指差し”ここは我々の地である”と宣言し、定着をはじめる。なにもないユタで数百人の小集団が生き延びるのはとてもきつかった。
折りしも西部開拓時代。モルモン教団の中にはダニテ団という過激的な集団が結成したり、教徒を増やすためにかなり残虐な行為を行った事もあるという。
そして、子孫を増やすためにブリガム・ヤングが行った政策は一夫多妻制の導入。 ブリガム・ヤングは前からジョセフ・スミスに「一夫多妻制」を提案していたのだが、スミスはそれを受け入れなかった。
ところがスミスが死んで、教団がユタに入ってしばらくすると、ブリガム・ヤングはジョセフ・スミスから受けた啓示ということで一夫多妻制を開始させた。
(追記:ただし、一部の資料では、そうではないという話もある。ジョセフ・スミスも一夫多妻を希望しており、あるとき神様からそういうお告げを受けて妻に相談したところ、妻はスミスの目の前で黙って結婚誓約書なるものを破り捨てたという。)
長い間、ユタ自治区はアメリカから半ば独立した存在になっており、税金を収めず、それを治めさせようとアメリカ政府が裁判官等を送り込むと殺戮を繰り返し、アメリカで州と認められたのはかなり長期に軍事的な対立をしてから。騎兵隊つきで裁判官派遣、さらに一夫多妻の廃止という条件付きで、ついに1896年米国内で45番目の州となった。