地球ができる前、当然の事だが、宇宙が存在していた。私たちは地球人であると同時に、宇宙人でもある。普段、生活の中で宇宙を意識することはめったにないが、宇宙はまぎれもなく我々の生活延長にある。昔の人々は情報の乏しさから、星空に多くの情報を求めようとしてきた。宇宙はまさに物理的、精神的両面で人間の鏡なのだ。現代の科学が明らかにした宇宙の姿を突き詰めるには、いままで人々が宇宙とどう向き合ってきたかを考えなくてはいけない。
宇宙というと、地球とは違った特殊な存在と思われるが、大宇宙のなかでは地球の方がよほど特殊な存在である。宇宙でも地球上でも、自然の法則はまったく同じ。では地球はどのように特殊なのだろうか?
なぜ特殊な存在になったのだろうか?
それを知るには宇宙観を代え、天動説と地動説、星とは何か、太陽、星の一生、宇宙の広がりと進化、ビッグバン、宇宙と生命、宇宙生活、そして地球外生命についても深く考える必要がある。
プトレマイオスの宇宙感
つい500年ほど前まで、我々人類はプトレマイオスの著した「アルマゲスト」の影響もあり「地球は宇宙の中心にあって、太陽や月や星が、この地球の周りを回っている」という『天動説』を信じていた。
-天上の世界は球形で、球として動く。
-地球は球である。
-地球は宇宙の中心に位置する。
-地球の大きさは恒星までの距離に比べて極めて小さく、数学的な点として扱うべき。
-地球は動かない。
プトレマイオスの天動説はその後1400年もの間信じられてきたが、ポーランド生まれのコペルニクス(1473~1543)は「地球やその他の惑星が太陽の周りを回っている」と考えた方が、惑星の動きなどを無理なく説明できると考え、『地動説』を唱えた。
カトリック教会の司祭だったコペルニクスは迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらい、実際の発表も死の直前であった。しかも、このころはまだ観測機器もなく人々を納得させるほどの観測結果を得られず、発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。
明らかに正しいはずの地動説に対して天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである。神学者マルティン・ルターは、コペルニクス説について「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した。
聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのは、神の偉大さを証明できるので問題がないが、大地が動いていると主張するのは、神の偉大さを否定することになると考えたとされる。1600年には、地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノが火炙りになるなど、当時の宗教は徹底的に科学の進歩、知識の進歩を妨げたと言えるであろう。
その後、17世紀に入ると望遠鏡が発明され、イタリアの天文学者ガリレオ(1564~1642)は、地動説に有利な証拠を多く見つけた。
代表的なものは木星の衛星で、この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオと弟子のカステリは金星の満ち欠けも観測。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。さらにガリレオは太陽の黒点や、太陽も自転していることを発見し、地動説に有利な証拠になると言うことで論文で発表した。
ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。
たとえ、ガリレオが異端の判決を受けたにしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力はなく、ドイツ人のヨハネス・ケブラーは観測を続け、「ルドルフ星表」を完成させた。今までの星表より30倍の精度を持つルドルフ星表は、惑星の位置は地動説を基にしなければ成り立たないほど説得力を持つものとなった。
しかしながら、ケブラーもガリレオも「地球が動くのなら、鳥や雲がなぜ取り残されないのか、誰も地球を押していないのに、どうして止まらずに動き続けられるのか」というコペルニクス時代から問われていた単純な疑問に正確な答えが出せないままでいた。これを完成させたのがアイザック・ニュートンである。
ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によっても、その正しさを証明できる学説となったのである。蛇足ではあるが、ローマ教皇ならびにカトリックが正式にガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則として天動説を放棄し、地動説を承認したのは、実にガリレオの死から359年後、1992年の事であった。
アイザック・ニュートン(1642~1727)の、りんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというのは単なる作り話とされ、実際はトイレで発見したなど、色々な逸話がある。
いずれにしても万有引力の法則という、物理学史上もっとも重要な発見(1666)をしたこの天才は、好奇心の旺盛さと引き換えに、きわめて内向的で偏屈な性格を持っていた。
彼の大発見の礎は、ケプラーの法則、ガリレオによるアリストテレス以来の運動法則の見直し、そして同時代に生きたハレーの彗星観測による。彼はこれらの一見無関係な現象が、「物体はすべて、他の物体に引力を及ぼす。その力の強さは物体の質量に比例し、その物体からの距離の2乗に反比例する」
という単純な言葉で説明できることを示した。
つまり、「物体の運動法則は、地上と天空では別のものである」という、ギリシャ以来のタブーを、「森羅万象は単純な根元に起因する」というギリシャ哲学流のアプローチで破ったわけである。
ニュートンは、遠心力の研究から地球の形が両極で偏平になった回転楕円体であることも理論的に導きだした。
ニュートンの万有引力の法則は、今世紀初頭にアインシュタインによって相対性理論が発見されるまでは絶対の法則であった。 そしてこの法則は今もなお、われわれの日常生活においてほとんど正しい。
ニュートン力学が一般に知られるようになっていらい、宇宙論は一気に過熱していく。1905年にはアインシュタインが「特殊相対性理論」、追って1916年には「一般相対性理論」を発表。「特殊相対性理論」が加速している場合や重力が加わった場合を含まない特殊な状態”における時空の性質を述べた法則であるのに対して、一般相対性理論は加速している場合や重力が加わった場合を含めた、一般的な状態における時空の性質を述べた法則であり、等速直線運動する慣性形のみしか扱えなかった特殊相対性理論を、加速度系も扱えるように拡張した理論となった。
1913年、アリゾナ、フラッグスタッフにあるローウェル天文台で、太陽系の始まり状態と考えられていたアンドロメダ星雲の生成途上にある太陽系を探そうとしていた研究者スライファーが、アンドロメダ星雲が秒速112キロメートルという速度で地球から遠ざかっている事を発見、翌1914年に学会で発表をし、称賛を浴びる。当時は地球とその太陽系が宇宙を漂っているとまだ考えられていた。
1918年、第一次世界大戦終戦が終結すると、情報が入りやすくなり、相対性理論、ジッターの膨張宇宙等の情報がやっとアメリカにも入るようになった。
エドウィン・パウエル・ハッブルがスライファーの発見とジッター膨張説を結び付け、星の明るさを調べ、変更周期と絶対光度が一定の関係にある事を突き止め、星までの距離を調べる事に成功する。1928年、1億光年以上まで測定を行ったヒューメイソンとハッブルの共同調査の結果、「遠い銀河ほど早いスピードで遠ざかっている」と発表。
膨張宇宙の裏付けとなった。
X-1-2-3(1cm間隔): X~1は1cm、X~2は2cm、X~3は3cm
倍になると;
X――1――2――3: X~1は2cm、X~2は4cm、X~3は6cm
単純な式だが、まさしく、宇宙は広がっている事の裏づけとなったのである。
アインシュタインは最初宇宙全体は一様で等方的で、宇宙の大きさは時間に無関係で一定、という考えに固執し、今とは全く正反対の事を訴えており、スピノザの神(神は創造主ではなく、宇宙にある安定した秩序に人間が自然界の法則を発見していく事ができるという事実が神の存在そのものである)を信じていたアインシュタインは非常に頑固であったが、1930年に自らハッブルの展望台で拡がっていく宇宙を目の当たりにし、ついに自らが出した相対性理論が正しく、宇宙は広がっていると認める事となった。